2013年10月08日
時代祭
平成二十五年十月二十二日(火)に行われます時代祭りの時代風俗行列にふく紘、小ふく、あかり(小はる)が参加させてもらいます。
時代祭は京都三大祭りの一つで、1895年(明治28年)に平安京遷都1100年を記念して平安神宮が創建された際に記念事業として始められたものどす。
このお祭りの特徴は神幸祭、行在所祭、還幸祭の神儀のほか、時代風俗行列が行われることで、明治維新から延暦時代へさかのぼってその時代の風俗、文物の変遷が再現されます。
ふく紘さんたちが参加するのはその内の一つ平安時代婦人列で三年に一度宮川町の芸妓さんにその役がまわってきます。
今回ふく紘さんはそのトップの巴御前、小ふくさんは横笛、あかり(小はる)さんは和気広虫の童女の役どす。
巴御前(ともえごぜん)は木曽義仲の愛妾で平家物語の『木曽最期』の章に登場し、容姿端麗でありながら一騎当千の女武者で、木曽義仲が源義経に敗れ都を追われた際には最後の七騎になるまで義仲のそばにつき従ったといわれています。
義仲に「武士の最後が女とともにあってはよろしくない。お前はどこへとなり落ち延びろ」といわれますが、それでも離れようとはしませんでした。
しかし義仲の再三の説得に「自分の最後を伝えてくれ」という要請もあったとも言われ、ついに巴御前は義仲のそばを離れます。
その際、最後の奉公として追撃に現れた敵武将の首を取ったとも伝わっています。
時代祭の行列では甲冑に身を包み、馬に乗って勇ましく登場します。
横笛(よこぶえ)は建礼門院の雑仕女で平家物語に斉藤時頼(滝口入道)との悲恋が語られている女性どす。
平清盛全盛の時代に花見の宴が催され、ここに参加していた平重盛(清盛の息子)の部下で滝口武者の斉藤時頼が余興として舞を披露していた横笛に一目惚れをします。
その夜から横笛のことが忘れられない時頼は文を送り、横笛もその愛を受け入れましたが時頼の父はこの身分違いの恋愛を許しませんでした。
傷ついた時頼は出家し、嵯峨の往生院に入り滝口入道と名乗って横笛への未練を断ち切るために仏道修行に入りました。
これを知った横笛は、時頼を探しにあちこちの寺を尋ね歩きます。
ある日の夕暮れ、横笛は嵯峨の地で時頼の念誦の声を耳にしますが、時頼は修行の妨げになると横笛を帰してしまいました。
そして時頼は横笛が尋ねてこられないように女人禁制の高野山静浄院へ入り、それを知った横笛は悲しみのあまり病に伏せ亡くなりました。
横笛の死を聞いた時頼はますます仏道修行に励み、その後高野聖となったというお話どす。
時代祭での装束は時頼を嵯峨に尋ねていく姿を現しています。
和気広虫(わけのひろむし)は孝謙上皇に仕えた奈良時代の女官で、政変や争いごとによって親を失った子供達を自宅へに預かり育て、これが日本最初の孤児院であったといわれています。
天平宝字8(764)年、藤原仲麻呂が、孝謙上皇の寵愛を得て台頭して来た道鏡に危惧の念を抱き、『恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)』を引き起こしますが叛乱はすぐに鎮圧され、怒った孝謙上皇は事件関係者375人を死罪とすることを決定します。
この決定に対して必死に死罪の軽減を願い出たのが和気広虫でした。
その結果、仲麻呂を始め仲麻呂の一族郎党34人が処刑され、他の者は減刑されました。
乱後に疫病や飢饉により捨て児(ご)が増えましたが彼女は孤児達を引き取って子とし、慈しんで育てました。
たいへん慈悲深い女性であったと伝えられています。
京都御所の西にある護王神社は和気広虫と弟の和気清麿が祭神として祀られており、広虫の功績から「子育て明神」と呼ばれて多くの人に信仰されています。
和気広虫の童女とは広虫が引き取って育てた子供のことで、あかりさんがその一人に扮します。
行列には舞妓さんは参加できませんがあかりさんは配役が決まった時にまだ仕込みさんであったので、今回童女として参加しています。
その他紫式部や清少納言などを宮川町の芸妓さんたちがさせてもらいます。
行列は正午に京都御所建礼門前を出発し (12:00) → 堺町御門 (12:15) → 烏丸丸太町 (12:30) → 烏丸御池 (12:50) → 河原町御池 (13:20) → 河原町三条 (13:30) → 三条大橋 (13:40) → 三条神宮道 (14:10) → 平安神宮 (14:30)到着の予定どす。
雨天順延どす。
どうぞたくさんの方に見に来ていただけますよう、よろしくおたのもうします。
時代祭は京都三大祭りの一つで、1895年(明治28年)に平安京遷都1100年を記念して平安神宮が創建された際に記念事業として始められたものどす。
このお祭りの特徴は神幸祭、行在所祭、還幸祭の神儀のほか、時代風俗行列が行われることで、明治維新から延暦時代へさかのぼってその時代の風俗、文物の変遷が再現されます。
ふく紘さんたちが参加するのはその内の一つ平安時代婦人列で三年に一度宮川町の芸妓さんにその役がまわってきます。
今回ふく紘さんはそのトップの巴御前、小ふくさんは横笛、あかり(小はる)さんは和気広虫の童女の役どす。
巴御前(ともえごぜん)は木曽義仲の愛妾で平家物語の『木曽最期』の章に登場し、容姿端麗でありながら一騎当千の女武者で、木曽義仲が源義経に敗れ都を追われた際には最後の七騎になるまで義仲のそばにつき従ったといわれています。
義仲に「武士の最後が女とともにあってはよろしくない。お前はどこへとなり落ち延びろ」といわれますが、それでも離れようとはしませんでした。
しかし義仲の再三の説得に「自分の最後を伝えてくれ」という要請もあったとも言われ、ついに巴御前は義仲のそばを離れます。
その際、最後の奉公として追撃に現れた敵武将の首を取ったとも伝わっています。
時代祭の行列では甲冑に身を包み、馬に乗って勇ましく登場します。
横笛(よこぶえ)は建礼門院の雑仕女で平家物語に斉藤時頼(滝口入道)との悲恋が語られている女性どす。
平清盛全盛の時代に花見の宴が催され、ここに参加していた平重盛(清盛の息子)の部下で滝口武者の斉藤時頼が余興として舞を披露していた横笛に一目惚れをします。
その夜から横笛のことが忘れられない時頼は文を送り、横笛もその愛を受け入れましたが時頼の父はこの身分違いの恋愛を許しませんでした。
傷ついた時頼は出家し、嵯峨の往生院に入り滝口入道と名乗って横笛への未練を断ち切るために仏道修行に入りました。
これを知った横笛は、時頼を探しにあちこちの寺を尋ね歩きます。
ある日の夕暮れ、横笛は嵯峨の地で時頼の念誦の声を耳にしますが、時頼は修行の妨げになると横笛を帰してしまいました。
そして時頼は横笛が尋ねてこられないように女人禁制の高野山静浄院へ入り、それを知った横笛は悲しみのあまり病に伏せ亡くなりました。
横笛の死を聞いた時頼はますます仏道修行に励み、その後高野聖となったというお話どす。
時代祭での装束は時頼を嵯峨に尋ねていく姿を現しています。
和気広虫(わけのひろむし)は孝謙上皇に仕えた奈良時代の女官で、政変や争いごとによって親を失った子供達を自宅へに預かり育て、これが日本最初の孤児院であったといわれています。
天平宝字8(764)年、藤原仲麻呂が、孝謙上皇の寵愛を得て台頭して来た道鏡に危惧の念を抱き、『恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)』を引き起こしますが叛乱はすぐに鎮圧され、怒った孝謙上皇は事件関係者375人を死罪とすることを決定します。
この決定に対して必死に死罪の軽減を願い出たのが和気広虫でした。
その結果、仲麻呂を始め仲麻呂の一族郎党34人が処刑され、他の者は減刑されました。
乱後に疫病や飢饉により捨て児(ご)が増えましたが彼女は孤児達を引き取って子とし、慈しんで育てました。
たいへん慈悲深い女性であったと伝えられています。
京都御所の西にある護王神社は和気広虫と弟の和気清麿が祭神として祀られており、広虫の功績から「子育て明神」と呼ばれて多くの人に信仰されています。
和気広虫の童女とは広虫が引き取って育てた子供のことで、あかりさんがその一人に扮します。
行列には舞妓さんは参加できませんがあかりさんは配役が決まった時にまだ仕込みさんであったので、今回童女として参加しています。
その他紫式部や清少納言などを宮川町の芸妓さんたちがさせてもらいます。
行列は正午に京都御所建礼門前を出発し (12:00) → 堺町御門 (12:15) → 烏丸丸太町 (12:30) → 烏丸御池 (12:50) → 河原町御池 (13:20) → 河原町三条 (13:30) → 三条大橋 (13:40) → 三条神宮道 (14:10) → 平安神宮 (14:30)到着の予定どす。
雨天順延どす。
どうぞたくさんの方に見に来ていただけますよう、よろしくおたのもうします。
Posted by しげ森
at 12:00
│お稽古・行事